5/24/2021

GHQ報道規制と焚書

かつて「3S政策」という米国の占領政策があった。そのことを初めて知ったのは1980年代後半のときである。日本がバブル景気で老いも若きも人生を謳歌した大量生産大量消費の時代であり、男女雇用機会均等法、国鉄分割民営化に移行し、PC/CD/AVが出現し、日米貿易摩擦やAIDS流行、少子高齢化が懸念された時代だったと記憶している。社会的には、漫才ブーム、踊るぽんぽこりん、おニャン子クラブ、J-POP、トレンディドラマなどに湧いたことを後年になって知った。 

「3S」がScreen, Sports, Sexの頭文字で、これらに日本の若者の関心を誘導することにより、愚民化する政策であり、同時に日本人が誇りに思うような歴史を歪曲するというGHQ占領政策があったという話である。米国の知人から聞いただけで、自分で精査したわけではないが、戦後の教育を受けて育った人間にとっては「なるほどそういうことか」と思い当たる、納得力のある言葉だった。

そして1990年、日本に戻って逆カルチャーショックを感じることがいくつかあった。30有余年を日本で過ごした後、米国に駐在して受けたカルチャーショックは数えられないほどあるが、わずか7∼8年留守をした後の日本がどうしてこれほど変わったのかと思うことも多々あった。

先ず日常的に感じたのが、中年男性(40代以上)と若い女性(20代)が多くなったという驚きだった。新橋の駅構内の大きな壁一面に数十人の集合写真が張ってあった。「おじさんの国、日本」というタイトルだったと思う。電車の中も会社内も街中も、おじさんと若い女性であふれていたというくらいの印象で驚いた。言い換えれば若い男性(20代)の影が薄かった。

さらに驚いたのが、最終電車で帰った時の駅前のタクシー乗り場の光景だった。待ち行列で10人いれば、その内3~4人が若い女性だったことだ。少なくとも80年代初頭には見たこともない光景だった。

「男女雇用機会均等法」施行から5年が経っていた。1960年代の「女子大生亡国論」(早慶の教授たちが揶揄した)を思い出した。あれは幻想であり性差別発言だったが、日本も若い女性が活躍できる社会になったのかと感慨ひとしおだなった。アメリカの仕事仲間の半分は女性だったから、それに比べれば日本ではまだまだ女性が活躍できる余地があると思ったものだ。

ただ、日本の「男女平等」の考え方はどこか変で歪んでいるという違和感があった。どうして「女性専用の車両」があるの?どうして女性しか注文できない「レディースランチ」があるの?その一方で、どうして女性管理職が少ないの?どうして女性の専門職が少ないの?

「男女平等」ではなく「男女雇用機会」の均等化が目的で、アメリカのEEOとは違うということだ。翻訳すれば「雇用機会均等法」だが、EEOは男女の別(LGBTを含む性別)だけでなく、人種、肌の色、宗教、国籍、身体傷害、年齢などによる差別を禁止している。1964年の公民権法が基盤になっており、EEOC(連邦政府機関: 雇用均等委員会)が運営しており、企業現場の査察もあった。

30数年前のことだが、米国で人員を採用し人事管理(MBO)をする立場になったとき、一介の技術者の身でEEOを学び、これを遵守するのは大変だった。難解な用語のひとつにAffirmative Action があった。いまでこそ、ネットで検索すれば説明があるが、当時は拙い英語力で理解するのに時間がかかった。採用時だけでなく、半年に一回の目標管理で部下全員の評価だけでなく、管理者自らがどんなAffirmative Actionを取ったのかを未熟な英語力で記述するのは大変で、気が重かったものだ。何回か繰り返し慣れればどうということもない。※Affirmative Action: 性別や人種などにおいて、社会的に差別されている人たちを救済するための措置。


War Guilt Information Program

戦後GHQが日本占領政策の一環としておこなった日本国民に対する再教育計画。江藤淳が1989年に自著で紹介したのが最初だという。公式和訳については日本の独立行政法人の国立公文書館によると「戦犯裁判広報計画」である。

戦後の連合国軍占領下の日本での諸政策を批判するコトバとして3R/5D/3Sを試用したのは安岡正篤(国家主義者・陽明学者で歴代首相の指南役を務めた)だという記述(『運命を創る―人間学講話』p.39 プレジデント社、1985年)がある。

3R、5Dと略称される政策は戦勝国の占領政策としては当然ともいえる。再教育計画のひとつとして3Sという政策もあり得るかもしれないが、「愚民政策」というよりは「権威主義国家化」といえる。国家権力を行使して報道規制を行い国民を洗脳しようとしたという意見がある。GHQ以前の戦前にも3Sがあった。「シオン賢者の議定書」という最悪の陰謀論(ロシアの偽書)のなかの「ユダヤ人の3S謀略」である。※陰謀論や都市伝説で頻繁に引用される団体にイルミナティとフリーメイソンがある。史実を誤解しているか、史実を知りながら話題として取り上げ誇張しているか分からない話が横行している。

さらにはここ数年の論調でも、「3S政策の影響が今もある」と主張する人がいるが、それが事実かどうかを検証するのは難しい。また新3S(セックス・スキャンダル・スイーツ)あるいはFSG(ファッション・セックス・ゴシップまたはグルメ)というコトバもある。

これらはバブル景気以後30年に渡って平成の時代を彩った日本の世相であり、とくに若い女性たちがけん引したといえるのではないか。結果として、日本が物理的にも精神的にも文化的にもアメリカ化(カタカナ英語化)したといえる。

3S政策は日本についてだけでなく、1980年代の光州事件以後の韓国についても言及される。全斗煥の愚民化政策をまとめて言う表現である。日韓両国について共通して言われるのは、「現代を3Sが支配する時代」ということであろう。


▷プレスコード通達に先立って昭和20年(1945年)9月10日に「新聞報道取締方針」「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書 Freedom of Press and Speech」(SCAPIN-16) が発せられ、言論の自由はGHQ及び連合国批判にならず、また大東亜戦争の被害に言及しない制限付きで奨励された。
出典: 国立国会図書館

プレスコード(日本に与うる新聞遵則)

昭和20年(1945年)9月19日に、SCAPIN-33(最高司令官指令第33号)「Press Code For Japan(日本に与うる新聞遵則)」が最高司令官(D.MacArthur)の名前で通達された。実施者は米太平洋陸軍総司令部民事検閲部。

検閲は連合国軍最高司令官総司令部参謀部のうち情報担当のG-2(参謀2部)所管下の民間検閲支隊(CCD。Civil Censorship Detachment)によって実施された。

1948(昭和23)年には、GHQの検閲スタッフは370名、日本人嘱託5700名がいた。新聞記事の紙面すべてがチェックされ、その数は新聞記事だけで一日約5000本以上であった。

検閲事項

1. 連合国最高司令官に対する批判
2. 極東国際軍事裁判 批判
3. GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判
4. 検閲制度への言及
5. アメリカ合衆国への批判
6. ロシア (ソ連邦への批判
7. 英国への批判
8. 朝鮮人への批判
9. 中国への批判
10. その他連合国への批判
11. 連合国一般への批判 (国を特定しなくても)
12. 満州における日本人の取り扱いについての批判
13. 連合国の戦前の政策に対する批判
14. 第三次世界大戦への言及
15. 冷戦に関する言及
16. 戦争権護の宣伝
17. 神国日本の宣伝
18. 軍国主義の宣伝
19. ナショナリズムの宣伝
20. 大東亜共栄圏の宣伝
21. その他の宣伝
22. 戦争犯罪人の正当化および擁護
23. 占領軍兵士と日本女性との交渉
24. 闇市の状況
25. 占領軍軍隊に対する批判
26. 飢餓の誇張
27. 暴力と不穏の行動の扇動
28. 虚偽の報道
29. GHQまたは地方軍政部に対する不適切な言及
30. 解禁されていない報道の公表

〔参照資料〕

YouTube


GHQ焚書

📚GHQ焚書アーカイブス
GHQが葬った7,769冊もの本から復刻されたものは極わずか。75年経っても封印された内容がまだまだあります。月額動画サービス『GHQ焚書アーカイブス』は毎月1冊、GHQに禁書された本を取り上げ、そこに書かれた終戦以前の日本人の思い、知恵、真実の歴史、世界のタブー等を、一流の講師陣によって動画講義で蘇らせます。

▶︎シナ大陸の真相1931-1938〜満州事変当時の支那大陸の真実が分かる書。モスクワから中国への軍事援助、中国紅軍の成長、コミンテルンと国民党の同盟など、支那事変前夜の大陸の政治的実情と国際社会の視線を冷静に公平に且つ鋭く見据える〜当時の日本はアメリカに誤解され差別を受けていた。誤解を解くために奔走した、当時の著名な言論人(日系アメリカ人)河上清の著作が復刻された。
1906年
サンフランシスコで、公立学校への日本人学童の入学を拒否
1913年
カリフォルニア州議会が排日土地法を制定し、日系1世の土地所有を禁止
1924年
アメリカが日本からの移民を全面的に禁止