8/10/2024

移民問題に苦しむ地域社会

移民といえば、移民国家アメリカとか日本人のハワイやブラジルへの移民、戦時中の日系アメリカ人への迫害などが思い浮かぶ。しかし、日本国内の移民問題については、少なくとも三年前まではまったく考えなかった。

しかし、いま日本のあちこちで移民(不法滞在者)問題が顕在化し、移民に苦しめられている地域住民のニュースが多く流れている。もちろん腐った新聞テレビでは報道されても上滑りか偏向した報道である。Xには毎日移民関連のニュースが流れている。久しぶりに和田議員の発信を見たが、相変わらず頓珍漢なことを言って批判されている。クルド議員連盟がいまだにあるようだが、いったい何をやっているのか?

伊藤貫氏が、移民に言及している動画が目についた。それともう一つ、「アメリカ文明のモラル崩壊」という興味深いテーマの動画もあった。同氏は山谷えり子参院議員の弟で、国際政治アナリスト。米在住で、海外メディアに寄稿。日本では「表現者」に連載し、YouTubeチャネルでも発信中(240810 登録者数5万人)。

🎦アメリカ文明のモラル崩壊と日本への警告(伊藤貫)

建国から1950年代までのアメリカはWASPが支配する白人国家だった。移民国家ではあるが移民の多くは白人に限定していたため、白人比率は80%だった。メリカ国民の大多数の価値判断基準は同じ、WASP政治文化と白人アングロサクソンのキリスト教的価値判断だった。それが大きく変わったのが1960年代のセックス革命だった。それはキリスト教思想に対する反乱でもあった。同じ頃、有色人種の移民を厳しく制限してきた移民法が改定された。60年代半ばまでの移民の8割が白人だったのが、改定後は逆転し移民の8割が有色人種になった。最近は、バイデン政権になって、リオグランデ国境を歩いて渡ってくる人たちは難民扱いで追い出してはいけないことになり、国境がないのも等しい状態になり、年間300万人が入ってくる。この人たちの9割以上が有色人種である。このまま移民が増えると、2040年頃には国民の過半数が有色人種になる。

1970年代のベストセラーのひとつが Culture of Narcissism で、自分中心主義がはびこるようになったと著者は主張している。この頃から、アメリカの心理学者と教育学者は、何かにつけてSelf, Selfというようになった。子どもにとって大切なのは、自分のHigh Self-Esteem(自尊心、自己評価)とSelf-Fulfillment(自己実現、自己充足), Self-Realization(自己実現、自己啓発)、Self-Assetive(強い自己主張)なのだというようになった。これを Culture of Narcissism といい、これを続けていくとアメリカは崩壊すると警告した。

1980年代のベストセラーが Closing of the American Mind である。みんなが民主党が言うような自分中心主義と Diversity-Tolerance-Inclusion を目指すことは、一見開かれた社会を築こうとしているように見えるが、実はアメリカ人の心はどんどん狭くなって、心 Mind を閉ざす人が増えてきた。これは個々人の心だけでなく、アメリカ社会が狭量になってしまったと嘆く。

その10年後、ロバート・ボーク(エール大学教授)が Slouching Towards Gomorrahを出版し、アメリカが道徳的に荒廃した社会に向かっていると警告した。そして2004年、私も好きなサムエル・ハンティントンが Who Are We? を出版し、アメリカ人の価値判断はほとんど崩壊状態にあると警告した。いまや価値規範と呼べるようなものは残っていない。アメリカという国はアングロサクソン政治文化とプロテスタント倫理観をベースとして生まれた国なのに、このままいくと分裂して崩壊してしまうか、内乱が勃発して2030年代になると内戦状態になるのではないかと危惧した。

これ先立ってハンティントン教授は The Clash Of Civilizations(邦題:文明の衝突)を発表しており、アメリカの一極覇権体制をつくる試みは、他国の反乱を招き、21世紀の国際政治は諸文明の衝突になるだろうと予告した。いまの国際情勢は教授が予告した通りになっている。

〔参考図書〕

アメリカ人は民主主義者ではなく、自己中心主義者になった。裕福なトップ1割グループに属して、自分のHigh Self-Esteem(自尊心、自己評価)とSelf-Fulfillment(自己実現、自己充足), Self-Realization(自己実現、自己啓発)を実現できればいい、つまり「自分さえ良ければいい」という考え方をする人たちが増えた。アメリカの政治文化に多大な影響を(無意識に)受けた日本人も、かつて祖父母に「世のため人のため」と言い聞かされた、日本古来の考え方を持った人たちは少数派になってしまったのか?

アメリカの心理学者と教育学者が言い出した「自己実現を目指せばいい」というのは一見もっともらしく聞こえるが、端的に言えば「自分だけ良ければいい」ということである。これ(自分が出世し成功すること)を目的として競争すれば、社会全体の生産性が上がって、みんなうまくいくというウソを信じたのか?

この話で思い出すのは「マズローの欲求五段階説」である。アメリカの公民権運動、個人の自由や自己実現が重視された1960年代に生まれた考え方で、企業の人事政策にも取り入れられた。これが批判されるのは、自己実現できなかった人たちの視点が無視されたことである。6∼8割の人たちは自己実現できないという現実に目を向けることがなかった。人間活動のポジティブな側面にばかり目が行き、多数派の社会的弱者の視点が抜け落ちた。

世界各国での実証研究や調査の結果、段階的に欲求が強くなるという仮説や、下位の欲求が満たされると上位の欲求が強くなるという仮説、いずれも実証的証拠がない。生理的欲求と安全への欲求は共通して重要だが、それ以外は国や地域、文化や価値観の違いに影響される。当然個人差もある。私自身も若いころマズローの話を聞いたとき違和感を抱いた。

たとえば社会的欲求だ。私には若いころ、人間関係が苦手な田舎者というコンプレックス(劣等感)があった。あまり他人と関わりたくなかった。何かの集まりに入りたいという意味の社会的欲求はなかった。一人にしておいて欲しいという欲求の方が勝っていた。しかし、その一方で「付き合いは大事にせんといかん」と祖父に諭されていたことが頭にこびりついていたため、誘いを断ることは滅多にない。下戸なので酒の席は辛かったし、夏のビアホールでもビール一杯が限度だったので、そんな付き合い、社会的欲求が強いとは言えない。

尊重の欲求はあるが、有能感とか名声を求めるというのではなく、達成感を得る喜びがあるから何かをしたいという欲求の方が強い。若いころは登山が趣味だった。30KGものキスリング(もう死語かな)を担いで歩くのは辛くても、危険があっても、一歩一歩登るのは、たどり着いたときの達成感、自分にも知らなかった底力があるのだという満足感があるからである。そこから自分を尊重する自信が生まれる。他人が認めてくれるかどうかは別問題である。他人に承認して欲しいという欲求のために山に登るのではない。

最後の「自己実現欲求」はどうだろう。創造性、自発性、問題解決、自己成長などを求める欲求はある。「理想の自分になろうとする欲求」もあるだろう。しかし、理想の自分とはなにか?それが何かは分からない。分からないから人間は悩んだり迷ったりしながら生きている。敢えて言うなら自己実現は「生きる」ということ、そのものではないか。

自己実現というコトバが出てきて、話が逸れてしまった。自己実現を目指すという考え方は「能力主義」を重んじることである。能力主義的な競争に勝った人たちは、競争に負けた、勝てなかった6~8割の人たちをバカにする勝者がいる。この能力主義的勝者の中には鼻持ちならない、思い上がり者がいる。それが社会的勝者と弱者の対立を生む土壌になる。社会の分断が起こる。

アメリカで「分断社会」が大きな問題になって久しい。「自分さえ良ければいい」という1960年代に始まったフリーセックス、ヒッピー世代が個人主義、能力主義に根差した自由世界をけん引してきたともいわれる。

※余談:ベビーブーマー(団塊世代1946~1964年生まれ)と呼ばれる世代で、クリントン夫妻がその典型である。私の好きなジャック・ニコルソン、ダイアン・キートンが主演したSomething's Gotta Give(2003年公開、邦題:恋愛適齢期)の監督・脚本家ナンシー・マイヤーズが団塊世代の先頭集団である。ナンシーが熟年になった団塊世代のあり様を描いたロマンティック・コメディが恋愛適齢期で、このブログのタイトルに借用している。ダイアン・キートンに恋する若い医師に扮するキアヌ・リーブス(マトリクス)が最後尾の世代である。