日本が外国から侵略された歴史として学ぶのは「元寇」である。明治までは蒙古襲来といった。NHK大河ドラマでも描かれたので日本人なら誰でも知っている話である。しかし、元寇(1274と1281年)より250年も前に、刀伊の入寇(1019年)があったことは教科書には書かれていない。
1019年の事件
3月27日、正体不明の賊が50雙の船で壱岐島に上陸し、牛馬を殺して食い、島民を殺し、千数百人を拉致した。
壱岐守 藤原理忠(まさただ)が手勢147人を率いて対戦するが、暴徒3000人を相手に衆寡敵せず全滅した。
嶋分寺住職 常覚和尚が脱出し対馬守 遠晴に報告。まもなくして盗賊は福岡(筑前)に上陸し大宰府を襲う。これを迎え打ったのが大宰府権師(ごんのそち) 藤原隆家。
最強の日本武士団
最強の正規軍はたちまちのうちに撃退した。古来の熊襲と呼ばれた時代から九州の武士団は強い。半島から侵入してくる外敵に常に備える必要があったからである。
この事件で殺された者365名、拉致された者1289人。拉致者のうち生還したのは270人のみだった。捕虜(高麗人)の話では、刀伊を名乗る賊はツングース系の女真族(高麗が呼ぶ夷狄)だと言うが、既に滅んだ民族だった。入寇したのは高麗人だったと判断されるが、隣国との軋轢を避けるため公文書には残さず、「刀伊の入寇」と記録した。
※日本は古来より本籍を基本に組織的活動や編成が行なわれた。
対馬で蛮族に殺された人々を葬り供養したのは対馬出身者が中心であった。何度も全滅した対馬に何度も島民が戻って今日に至っているのは、対馬出身者が団結して再興してきたからである。
先祖代々の土地、文化、伝統を重んじる気質が、日本人の大切な価値観、精神性である。明治以降の軍隊が本籍別に編成されたのも同じ理由である。
〔参照資料〕