裕次郎カットやポケットに手を突っ込みながら肩をいからせて歩く姿は誰もが真似をしたといわれている。サングラスを掛け、魅力的な容姿と、破天荒ながら包容力にあふれる心遣いで日本中の老若男女があこがれた。担当マネージャーは関町進。担当のテーラーは遠藤千寿。日活ダイヤモンドラインのメンバー(彼、小林旭、赤木圭一郎、和田浩治、(宍戸錠))でもある。東京都知事石原慎太郎の実弟。
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生涯
生涯
海運会社・山下汽船(現:商船三井)に勤める父・石原潔 母・光子の次男として生まれる。現東京都知事の石原慎太郎は実兄。父の転勤により、兵庫県神戸市須磨区→北海道小樽市→神奈川県逗子市と港町に育つ。稲穂国民学校時代に水泳(競泳)や天狗山 (小樽市) でスキーに親しむ。自宅から学校までスキーで通ったこともある。アカシアを好む。逗子市立逗子中学校時 代からはバスケットボールに熱中し、将来はオリンピック出場を夢見るスポーツ少年であった。近所の人と野球チームを結成し、レフトとして活躍したことも あった。少年時代、勉強をしないで飛行機の模型を作ることに夢中になり、潔は腹を立てて、模型を全て焼いてしまった。それを見た直後、裕次郎は「死にたい ぐらい悔しかった」と後に語っている。それ以降、彼の才能は絵画・彫刻・写真等に花開いていく。母親に東京芸術大学への進学を薦められた事がある。特にサルバドール・ダリの影響を受けた人物画や自画像や、ロケ先や空き時間に描いたスタッフの似顔絵を残している。その後慶應義塾高等学校を目指すが受験に失敗し、当時慶應高校の予備校的な存在だった慶應義塾農業高等学校に 籍を置くが、悪友たちにそそのかされ酒と女とケンカ三昧の日々に入る。この頃はかなり裕福な生活を送っており、裕次郎16歳、兄の慎太郎が18歳の時に父 より当時の日本では珍しかったヨットを与えられた。これをきっかけに、裕次郎はヨットに情熱を傾けるようになった。父の影響と海への憧れから将来は世界を 股に駆けるような船乗りになることを希望していた。学ランの中に赤色のセーター(トレンチコート)を着て、女子高生から注目されていたという。この頃から銀座やお座敷遊びをしていた(これが彼の梅毒罹患の一因と考えられている)。
1951年に慶應義塾高等学校に入学し再びバスケットボールに熱中するが、左足膝に大怪我をしたため選手生活を断念する。17歳の頃、父親の突然の死のショックにより再び酒と女、そして喧嘩と麻雀三昧といった放蕩の日々に入る。しかし一家の主を失った石原家はすでに困窮しており、1955年の兄・慎太郎の芥川賞受賞がなければ一家は裕次郎の為に破産していただろうと後に慎太郎は語っている。
デビュー
その後慶應義塾大学法学部政治学科に進学したが、俳優を目指し東宝と大映、日活のオーディションを受けるも全て不合格。しかし1956年に、映画プロデューサー水の江瀧子と兄・慎太郎の推薦もあり、兄の芥川賞受賞作である日活作品『太陽の季節』の映画版でデビューした。 裕次郎は遅刻が目立ったために、世田谷区の水の江の自宅に住むようになる。デビューして与えられた仕事は髪型モデルである。カメラマンの伊佐山三郎をして、「彼はとんでもない大物になる。阪妻の再来だ。」と言わしめたことがある。 ちなみに劇中での結婚シーンがないのは「映画を見た人に夢を与えるため」である日活の方針だったといわれている。大スター
『太陽の季節』の映画化に際して、日活に原作使用を依頼された兄は弟の主演を条件に出していたが、すでに主演が長門裕之に 決まっていたために、翌1957年に映画化された『狂った果実』に、『太陽の季節』以降人気が高くなっていた裕次郎が主演した。『狂った果実』はその衝撃的な内容と裕次郎の演技が話題を呼び、裕次郎の歌と共に大ヒットし、この作品以降裕次郎の人気は決定的なものとなった。川島雄三も「これからは彼の時代だ」と絶賛した。多忙のため1957年に大学を中退している。母は「大学を出るまでは学業に専念せよ」と望んでいた。この年に裕次郎はテイチクと専属契約し、若者の“太陽”(カリスマ)であり歌う映画スターともなる。日本人として初めてLPレコードを出している。意外にも副業にも手を出していて四谷でステーキハウス「フランクス」を経営していたことがある。彼はあがり症だった為、車に乗ったとき自分の曲を音楽関係者が歌っているデモテープを聞き、彼なりの独特の歌唱方法を身に付けたと言われている。当日のうちに曲と詞を覚え、レコーディングスタジオをについたときには水の江の進言によりレコーディングの 時は必ずビールを飲んだ。レコーディングの際ヘッドホンを生涯一度も付けなかった。またレコーディングは一回で成功したとも言われ、その後はすぐに忘れて しまうという。再度同じ曲に試みる場合は楽譜(詞入り)があれば思い出せるという[要出典]。吹込みでは数多くのバンドのセッションをレコーディングでこ なしてきたが、ブランデーグラスに ついてはわずか4小節に1時間以上もかかってしまい、「変拍子で、歌いづらい。」とボヤく。1度西部警察で歌ったことがあるが(実は1981年の間にこの 曲をテレビ番組で披露したこともある。)彼はペン字も達筆で(手紙において多い)、英語も読み書きが出来たそう(映画・曲で随時流暢なアメリカ英語を披露している)である。
これ以降立て続けに主演映画がヒットし、ブームが起こる。庶民性が大衆に支持されたからである。客が殺到して、草履や羽織まで落ちていたという逸話もある。常に彼はファンからの声援にこたえるため「歌手ではない。俳優だ。」と言った。1959年には成城に豪邸を完成させ話題となった。 人気が絶頂を迎えた1960年に女優の北原三枝と 結婚。裕次郎はデビューする前から北原のファンで、いくつかの映画で共演もしていた。当時、映画スター同士の結婚はタブーであったが、北原とアメリカへ逃 避行を遂げ、日活の堀久作社長が二人の交際を認めて帰国した。結婚後の記者会見で「独身最後の夜だと思って、ハシゴ酒をあおり、5:30に帰ってきた。」 というエピソードがある。 1963年には五社協定を振り払って、株式会社石原プロモーション設 立し活動を続けた(設立の理由は赤木圭一郎の急死と言われる)。また、『銀座の恋の物語』(1961年)などヒット曲を連発したほか、海外作品『素晴らし きヒコーキ野郎』へ出演するなど幅広い活動を行った。彼は野心的でスケールの大きい感動作を作りたかった。1968年 には三船プロとの合作で『黒部の太陽』を制作し大ヒットした。黒部でスキーをしたこともあった。また芸能人所得番付が5000万円(当時)→8000万円(当時)と別格であった。1971年、熱海で彼の快気祝いも兼ねてスポーツ紙5社、一般紙3社、芸能ニュース社1社と彼の親睦会「ナイロビ会」が開かれた。会則は①会費5000円。②プライベートの話をする。(1回目は1970年築地「天六」、2回目以降は浅草、銀座、新宿、六本木(六本木族を生み出した。ザ・スパイダースのかまやつひろし・赤木圭一郎・林家三平等と焼き肉店で食べている姿が目撃されたという。)の赤ちょうちん、最終回は赤坂東急ホテルで開かれた。)元日刊スポーツ記者の吉田一郎は「なんとも嬉しい顔や飲食している姿を見てまるで同窓会のようだった。」と回想する。 映画評論家渡辺武信をして「文芸ものからアクションに変えてしまった。」と言わしめた。
交友関係
交友関係が広いことでも有名で、必ず挨拶のときは立ち上がり、握手をする。落語家の林家三平とは家族ぐるみの付き合いや六本木、銀座での飲み仲間でもある(後に三平一家と石原軍団との付き合いに発展して、裕次郎・三平が共に亡くなった現在も兄弟の襲名公演の協賛を石原プロモーションにするなど深い関係は続いている。)司葉子、(同様な例に映画でジャニーズと共演したことをきっかけとして親密となっているジャニーズ事務所も挙げられる)歌手の美空ひばりや、俳優の勝新太郎とは義兄弟の契りをかわしていたと言われる(裕次郎の告別式の際には勝が弔辞(アドリブを読んでいる。高倉健は葬儀には参列せず静かに見守るだけであった。また安藤昇(横井事件で安藤組と揉めて歌謡ショーの興行の禁止通告されたことがある。)とは犬猿の仲である。交友の広さはスポーツ界にもおよび、栃錦、若乃花、朝潮、力道山や往年の読売ジャイアンツのクリーンナップ2人と親交が深く、長嶋茂雄を「しげ」(ベースボールマガジンで対談経験も持つ)、王貞治を「さだはる」と呼んでいた。特に長嶋との親交は深く、1962年には夫人とともにアメリカに年始旅行にも行っていた。他に池田勇人、青木功、エルビス・プレスリー、岡本太郎とも交遊している。
移籍はしていないが、田辺昭知も勧誘されたことがある。そのときに芸能に関して大いに会談した。後年彼は「芸能事務所の 経営理念を彼から学んだ。自分を自分でどう見せていくかこれが大事である。」と回想している。宍戸錠は「ちゃんと、日活にどんな俳優がいるか、下調べをし た。どうあいさつして、どう親しくなるかと礼儀正しい部分を見ていたんだ。期待を見ているからこそ仕事に妥協することを許さないプロ意識を持っていたの だ。日本人は内向的なので、本能で生きたほうがいい」と日本を変えたとまで言わせる彼の心意気を示した。
勝との関係
- 勝は「デビュー当時の横浜を、ただ歩くだけのシーンだけで負けたと思った。あいつはすごい」と絶賛する。(宍戸も同じようなことを言っている。)
- 座頭市では彼に竹刀を持って殺陣の実演をおこなった。このとき彼は「師匠、ありがとう」という言葉を残した。
趣味
口癖は「うん」なお自然を愛したこの頃も兄の慎太郎とともに学生時代から続けていたヨットレースを続けていた。ヨットにかける情熱は俳優活動よりも強かったと言われ、初の太平洋単独横断を行った堀江謙一の実話をモデルとした『太平洋ひとりぼっち』に主演した(この作品が石原プロモーション設立後の最初の作品である)。
また映画の撮影やヨット活動のために度々訪れていたハワイが一番好きな場所であり、静養のためにハワイに別荘を所有していた。現在、正月をハワイで過ごす芸能人が多いが、そのハシリとなった人物である。ハワイで過ごすようになった原因は依頼人に断りを言い続けるのを気にしたからといわれている。
他にも、当時日本では力道山と三橋美智也と裕次郎の3人しか個人で所有していなかったと言われるメルセデス・ベンツ 300SL(ガルウイングのシートは深紅。ただし車体はシルバー)を所有していた他、ロールスロイス(シルバースピリット)<このときは後部座席に座っていた。>やキャディラックなど複数の高級車を所有するほどのカーマニアであった。
実はキャンピングカー(撮影用・特製車両)を所持している。ヨットをイメージしており内部は彼自身がデザイン(海とヨットをイメージし、白いボディーには赤と青のラインが描かれて いる)と設計(船体にある丸窓やキャプテンシート)を手掛けたという。3500万円で購入したが、その内の3000万円を内装などにかけたといわれる。彼 の闘病中には大勢のファンが励ましのメッセージを車体に書き込んだ。
ラッキーカラーは赤。ゴルフはハンディキャップがシングル(バッグもヘッドカバーも赤)の腕前。
闘病の中での活躍
彼の変革は「恋の町札幌」が発売された1972年に始まる。また俳優としての仕事において同年には日本テレビ『太陽にほえろ!』(東宝制作)に出演。役者が壁なく仕事ができるのは、五社協定があったからとされる。これを期に映画を離れ、本人及び石原プロはテレビドラマに足場を移す。名実ともに“ボス”であった。プロデュースも 同時に力を入れ始めた。その後、同じく日本テレビ「大都会」シリーズを制作し、事実上続編のテレビ朝日『西部警察』が大ヒットを飛ばすが、その最中の 1978年に舌癌により入院した。なお本人には「舌白板症」と伝えられた。1980年1月にはには成城の自宅において、古墳時代の遺跡、土器が発見された こともある。発掘予算が足りなかったので、彼の私財100万円程を負担してくれたという。(上神明遺跡が広がっていて、縄文~古墳時代の土器や石器が出土した。宇奈根考古資料室では収納箱21箱に出土品をいれ、世田谷区立郷土資料館では古墳時代の五陵式土師器が展示されている。)寺田良喜(世田谷区文化財係主査学芸員)によれば「2世紀の2つの台・おこげ付甕(卑弥呼直前時代)米を入れお粥にして食べた。6世紀の鉄製鋤先など破片も含めると1万点程翌年に発掘した。(引用)」という。
以降も俳優や歌手としての活動を続けたものの、1981年に解離性大動脈瘤で入院し、担当医も「危険な状態」と記者会見で述べるなど重篤な症状だったが、手術によって奇跡の復活を果たす。手術成功のあと、慶應義塾大学病院の屋上から、まき子夫人、渡哲也と共に手を振るシーンがワイドショーで中継され、お茶の間に感動を与えた。この時の担当医の一人が、後に宇宙飛行士となる向井千秋で ある。この件を巡っては異常な報道合戦が繰り広げられたのみならず、見舞い客は12000人、手紙5000通、花束2000束、千羽鶴1000束、さらに は彼の車のボディーにも励ましのメッセージを書く人もあった。 またこの後、アニメ映画『わが青春のアルカディア』で初代ハーロックの役で声優デビューしている。その出演時間が約5分間であったにも関わらず出演料が1000万円以上であったため話題となる。なお、大動脈瘤を患って以降は左の耳に難聴を来たしていたが、歌や俳優の仕事に大きな影響はなかった。このあたりからポップス路線に完全に切り替わった。
その後原発性肝臓癌に侵されるが、最後まで本人には告知されないまま俳優および歌手活動を続けた。兄の慎太郎は「本人に癌であることを告知すべきだ」と主張したが、石原プロの小林正彦専務は「度重なる大病との闘いであの人(裕次郎)はもうへとへとになっている。そこでもし今回の病の正体を告げたら自ら命を絶ちかねない。つまり死刑宣告だ」と反論。慎太郎は「裕次郎に考える時間を与えよ。彼はそんなに、やわいな男じゃないよ。」と反論したが、小林の考えを受け入れて告知しないことに決めたという。渡も同様の発言をしている。まき子夫人も病気と悟られないように演技をしていたと語っている。
1985年、倉本聡脚本でハワイを舞台にした父娘の物語を作ろうとしたことがある。
1986年の『太陽にほえろ』の最終回にて岡田から「1シーンだけ自分の言葉で語らせてほしい。」と言う彼のリクエストにより、10分間にわたり命 の大切さを語っている場面がある。(内容は解離性大動脈瘤で手術したときの事を彼に照らし合わせたものである。)病床でも映画にかける思いを漏らしてい た。
闘病さなかの1987年に発表した『北の旅人』はオリコン1位を獲得した。当時52歳7か月であった裕次郎は、2007年に小田和正が『こころ』でその記録を更新するまで、歌手として最年長オリコン1位獲得者となっていた。このレコーディングには酸素マスクをしながらの録音を2月中に2日間行った。『我が人生に悔いなし、俺の人生』も同様である。
『我が人生に悔いなし、俺の人生』は裕次郎が「人生の歌を歌いたい」と作詞家のなかにし礼に直接リクエストして出来た曲であるが、なかにしはこのリクエストを聞いた瞬間に「死の匂いをかいだ」と後に語っている。
なお、『北の旅人、想い出はアカシア』は療養のために滞在していたハワイでレコーディングされたが、裕次郎は絶え間ない微熱とたびたび大量の鼻血を出すような体調の中でレコーディングをしていたという。そのため、作曲家の弦哲也は見かねてハワイに飛び立ち気遣っていた。裕次郎は最後のレコーディング後、1987年1月9日にテレビ朝日『ミュージックステーション』にてハワイからの衛星生中継に登場し、近況報告を行い「BEYOND THE REEF」を現地から熱唱した。これが最後のテレビ生出演となった。
ハワイでの療養中にも体調の悪化が見られた裕次郎は帰国を嫌がっていたが、畏友であった宝酒造会長:大宮隆の進言により帰国を了承した。その後彼の所有していたライフル銃を松方弘樹(1978年・ウインチェスター3006)と梅宮辰夫に譲っている。1987年6月に「もう二度とこの家には帰ってこれないだろうな」と発した。
死去 [編集]
1987年7月17日金曜日16時26分に入院先の慶應義塾大学病院にて肝細胞癌で死去した。享年52歳没。実は幼少時代から肝臓は悪かったといわれている。 なお死去当日のミュージックステーション(テレビ朝日)は19:30から90分の緊急追悼特番を組み故人を偲んだ(この対応はきわめて異例であった)。また、フジテレビジョンは21時00分からの金曜エンタテイメントシリーズ枠で『紅の翼』(日活映画)を追悼番組として急遽放送した。
日本放送協会は、NHK総合テレビジョンで『あじさいの歌』を追悼番組として放送している。
7月19日に関係者による密葬が行われ、8月11日に青山葬儀所で石原プロモーション&テイチクによる合同葬が行われた。その後海洋葬として海に散骨した。理由は慎太郎が湘南の海が好きだった裕次郎の遺骨を散骨したいと願い出たからである。その間の1990年に映画の殿堂入りを果たしている。
石原が亡くなった日、東京は梅雨明け宣言がされたばかりであったが、その翌日から葬儀・告別式が終わるまでは戻り梅雨に見舞われ、東京の梅雨明け宣言が取り消しになった。 戒名は陽光院天真寛裕大居士。墓は神奈川県横浜市鶴見区にある總持寺に立てられている。墓碑には夫人が彼に対するイメージを詠った詩が刻印されている。
「美しき者に微笑を、淋しき者に優しさを、逞しき者に更に力を、全ての友に思い出を、愛する者に永遠を。心の夢醒める事無く。」
彼の与えた影響
死後にもテレビドラマや映画、楽曲は高い人気を誇り、川中美幸とのデュエットや兄の慎太郎によるベストセラーである『弟』をはじめとする関連図書・音楽も多く出版されている。近年もジョイサウンドやダイドードリンコのCMにデジタル合成で出演した事があり、話題を呼んだ。なお、2005年頃より通信カラオケシステムDAMの機種改良に伴い、同機種で配信する裕次郎の代表曲の多くに裕次郎の映画の背景映像等を流用したものが使用されている。代表例が石碑である「狂った果実・恋の街札幌・そして銀座の恋の物語」である。銀座の恋の物語の石碑は銀座の老舗バー「ルパン」のマスターだった高崎武の呼びかけで、銀座通連合会やテイチクなどが中心となり1990年7月に建立。黒御影石で高さ90センチ、幅1メートル70センチ。碑の両側にはカップルが座れるスペースがあり、大高ひさを直筆の碑文となっている。
怪我・病気の遍歴
彼は怪我や病気と多く闘っていた。そこで年譜にしてまとめる(1956年以降)。- 1956年:この頃まで、酒とたばこと女に溺れる無職の日々を送る(高校生の頃に黄疸が出る)。
- 1957年:自由が丘で無免許運転し右足打撲(もう一つは映画ロケ中にデッキチェアーに手を挟み右手薬指負傷)。
- 1961年:志賀高原スキー場でスキーヤーと衝突し右足首粉砕複雑骨折(後に右太股腫性膿瘍の手術で入院)。
- 1964年:ハワイでヨット乗船中に右瞼を11針縫う。
- 1965年:ヨット乗船中に腹痛のため大会を途中断念。
- 1967年:右手親指骨折及び左足打撲で入院。
- 1968年:右足打撲で全治1ヶ月入院。
- 1971年:心労と胸部疾患(後に急性肺炎→肺結核)のため映画宣伝中に入院。
- 1974年:階段から転倒し左肩打撲(後に左鎖骨骨折)
- 1978年:舌下潰瘍(舌ガン)で入院し悪性と診断される(1983年再発)。
- 1979年:舌下白板症と診断され術後部に潰瘍ができ再び手術。
- 1981年:背中と胸に激痛が走り椎間板ヘルニアと疑われる。そしてついに生還率3%の解離性大動脈瘤と診断(後に右耳が難聴となる)→退院後首や腰に痛みが出るもお炊き上げで回復するが発熱。
- 1984年:肝臓ガンと発覚し、倦怠感・腰痛の末原因不明の発熱にいたる(前の定期健診で肝細胞ガンと診断される)。
- 1986年:慶應義塾大学病院に緊急入院。血圧降下剤の副作用による肝内胆管炎の為、療養先で静養。
- 1987年:慶應義塾大学病院に入院、退院した(カテーテル治療)ものの容態悪化(高熱)、ついには幻覚症状を発する。そして肝細胞癌でこの世を去る。父と同じ52歳であった。
家族・親族
実子なし。彼に子供ができなかったのはスキーで足を骨折した時に多くの放射線を受けた説と、彼の子供時代に患ったおたふく風邪にかかった説がある。系譜
- 石原家
- 石原家の先祖について佐野眞一の著書『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』28-30頁によると、石原家は潔の2代前の石原安太夫の時代に絶家となった(理由は不明)が、服部家から服部信義の二男の信直が石原家に入り家を再興したという。慎太郎の父・潔は信直の三男である。佐野との対談の中で慎太郎は「うちの本家はそもそも石原ではなく服部なんです。…(中略)…先祖は武田の残党でそれが松山に流れて服部姓を名乗った。…(中略)…歴代服部勘助を名乗った服部本家の血筋をひいている親父の親父が石原家に入ってそれ以来石原姓を名乗った」と述べている[2]。潔は警察官だった父・信直の人事異動に伴って愛媛県各地を転々とし成長したという。[3]
小泉又次郎━━芳江 ┃ ┣━━━━━┳小泉純一郎━━┳小泉孝太郎 ┃ ┃ ┃ 小泉純也 ┗小泉正也 ┗小泉進次郎 ┃ ┃ ┏石田重蔵━━石田吉之輔━━━美枝子 ┃ ┃ ┗石田光治━━典子 ┃ ┣━━━━━━┳石原伸晃 ┃ ┃ 石原潔━┳石原慎太郎 ┣石原良純 ┃ ┃ ┃ ┣石原宏高 ┃ ┃ ┃ ┗石原延啓 ┃ ┗石原裕次郎 ┃ まき子
主な代表映画
映画配給代表20作品(年代順・日活調べ)- 1957年:「嵐を呼ぶ男」3.4億円
- 1958年:「陽のあたる坂道」4.0億円
- 1958年:「明日は明日の風が吹く」3.2億円
- 1958年:「風速40米」3.1億円
- 1958年:「赤い波止場」2.7億円
- 1958年:「嵐の中を突っ走れ」2.8億円
- 1958年:「紅の翼」3.6億円
- 1959年:「若い川の流れ」2.7億円
- 1959年:「世界を賭ける恋」2.7億円
- 1960年:「天下を取る」3.2億円
- 1960年:「喧嘩太郎」2.7億円
- 1960年:「闘牛に賭ける男」2.9億円
- 1961年:「あいつと私」4.0億円
- 1961年:「堂々たる人生」2.9億円
- 1961年:「アラブの嵐」2.8億円
- 1962年:「銀座の恋の物語」3.0億円
- 1962年:「花と竜」3.6億円
- 1964年:「赤いハンカチ」2.8億円
- 1968年:「黒部の太陽」7.9億円(観客動員734万人、興行収入16億円)
- 1970年:「富士山頂」2.8億円
- 上記のほかにもすべての映画をあわせると、現在の物価で換算すると約1兆円にもなるという。
出演映画
(1956年)
(1957年)
(1958年)
(1957年)
(1958年)
(1959年)
(1960年)
(1961年)
(1960年)
(1961年)
(1962年)
(1963年)
(1964年)
(1965年)
(1963年)
(1964年)
(1965年)
(1970年)
(1971年)
(1972年)
(1973年)
(1976年)
(1982年)
(1984年)
(1971年)
(1972年)
(1973年)
(1976年)
(1982年)
(1984年)
出演ドラマ(テレビ)
出演ドラマ(ラジオ)
レギュラー番組
- 石原裕次郎アワー(1957~59年、文化放送)
- 今晩は石原裕次郎です(1963~64年日本テレビ)
- すてきな仲間(1966年NET)
- やあ!石原裕次郎です(1982年、ニッポン放送)
- THE YUJIRO(2003年~ミュージックバード)
ゲスト出演
- 太陽の季節をめぐって(1957年・文化放送)
- ひこばえショー<銀座の夜は生きている>(1957年・日本テレビ)
- 七面鳥の贈り物(ナレーションとして1957年・文化放送)
- ジェスチャーゲーム(1958年・NHK)
- 私の秘密(1958年・NHK)
- 歌謡ビッグ・パレード<結婚記念特集>(1960年・文化放送)
- テイチク大行進(1963年・新宿厚生年金会館)
- 女性専科(1964年・TBSテレビ)
- ゴールデン歌まつり<石原裕次郎リサイタル>(1965年・フジテレビ)
- 歌謡ビッグショー(1966年・TBSテレビ)
- スクープ!!<男・裕次郎再起す!>(1971年・テレビ東京)
- 金曜スペシャル<男の世界>(1972年・テレビ東京)
- ビッグショー<あの青春の詩―そして今も―>(1975年・NHK)
- 太陽は今も輝く!(1975年・テレビ朝日)
- 徹子の部屋(1977年・テレビ朝日)
- 水曜スペシャル<~この素晴しき仲間たち~>(1977年・テレビ朝日)
- 人に歴史あり(1978年・テレビ東京)
- ビッグショー<男ひとり、気ままな夜>(1978年・NHK)
- 北帰行・小樽(1978年・NHK)
- 水曜スペシャル<石原裕次郎25周年記念>(1979年・テレビ朝日)
- スター千一夜(1979年・フジテレビ)
- 石原裕次郎のすべて(1982年・テレビ朝日)
- 石原裕次郎スペシャル(1985年・テレビ朝日)
- ザ・ベストテン(1987年・TBSテレビ/死後)
歌手活動
写真集
出版
連載
CM
大会出場
- 大島ヨットレース(1959年・1963年)このときに「コンテッサIII世号」がデビュー。
- トランス・パシフィック・レース(1965年・1973年・1975年)
- アドミラルズ・カップ・レース(1977年)
- パンナム・クリッパーカップ・ヨットレース(1982年)
- インビテーショナル・ゴルフ大会-途中ホールアウト(1986年)
- 石原裕次郎メモリアルヨットレース(死後)
記念館
- 石原裕次郎記念館(北海道小樽市)
ファンが集まる店
パチンコ
エピソード
- 2009年は彼の23回忌のメモリアルイヤーであり、石原プロが『 I LOVE YUJIRO ~ありがとう 天国からのラストメッセージ~ 』と銘打って7月5日に国立競技場で大法要を実施すると発表した。同プロの小林正彦専務によれば、スタッフの高齢化もあり、大がかりな法要はこれが最後になるという。ちなみに今回の23回忌は13回忌(総持寺で20万人が来場)で起こったトラブルの関係で別の場所でおこなうことになった。7回忌にはヨットを献花台にした。
- 愛称は Yujiro、タフガイ、裕ちゃん、裕さん、ボス など。
- 食通としても知られ、懐石料理・カレーライス・ビフテキ(兄の自宅に訪問すると、焼いてもらっていた。)、葉山コロッケなどを好み、和洋中食問わず好物が多かった。また、料理好きでもあり、自宅には自身の調理器具もあったほか、別荘やヨットハーバーでバーベキューや手弁当を楽しむ写真も数多く残されている。晩年には妻の食生活管理の下玄米のパンと野菜サラダのみの生活を送っていた。彼は毎日30錠の薬を規則正しく服用し、食事制限(特に塩分制限)も実行中だった。アルコールは当然厳禁だった。ある日「ソルティドッグ」を飲んだら金宇満司に怒られてしまったという。また車の中や外、店の隅(外)で運転手を待たせることや、車の中に1人でも人がいることを嫌っていたという。嫌いなものは、鶏肉だった。幼稚園のころ、母とデパートに行った。食堂でチキンライスの鶏肉の皮に、数本の毛が付いているのを発見した。以来「見ると寒気がする」といって避けていたという。
- チェーンスモーカーであり、大病を患う前は、休暇中には朝食にビールを飲むほど(事実撮影所には「ビールは水」という考えから冷蔵庫が置かれていた。)の酒豪であった。また、日本酒も好み、宝酒造のイメージキャラクターを務め、企業のイベントに参加するなど親密な関係を築いた。(喫煙も大病後に一時禁煙していた。)
- 「身長182センチ・体重75キログラム・股下90センチ」と、日本人離れした大柄な体型であると宣伝されたが、178cmの長嶋茂雄と並ぶ写真をみると、その公称身長には疑問もある。兄の石原慎太郎は公式HPで181cmとしている(小樽駅の4番ホーム「裕次郎ホーム」には等身大の裕次郎が置かれ身長182センチ・体重75キログラム〔1978年当時〕となっている) 。父は小樽に恩返しをしたがっていた事を彼が報いるために名づけたとも言われる。
- 台詞覚えが悪いことで知られ、最初は妻に注意されていたが、挙句の果てには台本を開いた状態で机の中において演技をしたこともあるという。またNGを出すことは一度もなかったともいわれる。うがい薬を机の中に閉まっていることもあった。
- 別荘を山中湖、下部温泉(「裕林亭」に1961年滞在。散歩をし、当時あったプールで泳いだ。また石原裕次郎写真館が存在する)、石和温泉にもち、芦原温泉の定宿で寛ぐ事が晩年多くなった。事実「ナイロビ会」が1977年~78年の秋に2泊3日山中湖の別荘で行われるようになった。全員で米炊きやみそ汁も作る。野菜(漬物)を刻み、バーベキューの薪(まき)も割ることもあった。
- レコードが擦り切れるほどジャズ・山中節を聞いていた。
- 慶大時代、湘南で一緒に遊んでいた15人で結成した「元祖会」。彼は、「太陽族」のリーダーでもあり。「忘れられぬ青春の思い出」でもある。年に何回か集まって飲み会やゴルフを楽しみ、そろいのブレザーも作り、ポケットには「元祖」と刺繍を入れた。
- 彼が赤坂にいくとき約10人が、店に電話して、宍戸の車を手配するという準備を細かくやってくれたという。気配りがトップマネージメント力において上手であったとされている。
- 『ガッチャマン』は日活版(実際には作らなかった。※主役は裕次郎)を想定して作られたとされている。
- 一度失踪した経験がある。原因は三枝との結婚を真剣な答えを探そうとして逃げたのである。実際はホテル『ブルースカイ』の打ち上げ中急行「銀河」に乗り京都の都ホテルそして神戸のオリエンタルホテルを経て松廼家に滞在した。事実、帽子を目深にかぶった彼は芸者と朝から晩まで大宴会をしていた。10日後スタッフや関係者が松廼家を包囲した。この件で彼は芸者たちに正座をしながら『ここで過ごしてきたご恩は忘れることはできません』と大粒の涙を流し続けたという。後年彼は「マスコミノイローゼもあるが、僕のわがままでやってしまった」とあっさりと否定している。
- 1962年雑誌の取材でアメリカ旅行へ2週間長嶋を誘った。五番街の高級帽子店でソフト帽をつくったり、ブロードウェーで観劇したり、エンパイアステートビルを上るスケジュールであった。宿舎では長嶋が彼の足をマッサージしたという。そのあとロジャー・マリスにあったり、フロリダ州マイアミで海水浴やヨットで遊んだともいう。
- 1965年にピストル密輸事件で家宅捜索され、拳銃不法所持問題で謝罪する(主犯格は百瀬博教)。
- 1969年の映画撮影時にキリマンジャロで「うんこがしたい」と言い出した。そこでグリーンスネークを追い払うため、10m四方を棒で草を叩きながら虫などを追い払い眼下に広がる雄大な景色へと目をやっていた。彼はあごの下へ手の甲を当て、掌に棒をついて、片手は小さな花を突いたりした。手洗いは草を両手でこすり合わせ、花をハンカチで包み、シャツのポケットの中に入れた。聖書に花をティッシュで包んで、押し花にすることもあった。
- 1971年に療養を兼ねて静観荘に滞在した。5月までにはロードワークをこなし、入院中の患者を見舞ったりしてあげる人であったという。
- 太陽にほえろでは実際に目を負傷した刑事のエピソードに彼が『この回は絶対に放送するな』とカセットテープに録音して送ったことがあった。
- 1981年の手術後、「喉が渇いているので、ポカリスエットが飲みたい。」と筆談で懇願し、売上が急増。大塚製薬からはトラック1台分のポカリスエットが病院に届けられたといわれている。
- 1980年頃、裕次郎は視聴率の件でニールセンを肯定しビデオリサーチは電通が影響している理由で否定するスタンスをとっていたという[要出典]。
- 紅白歌合戦には「歌は素人」という理由で毎年辞退していたといわれている。
- 四十九日法要を除く通夜、告別式、納骨、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌などの法要に必ずと言っていいほど雨が降ったことから、森田正光が「裕次郎雨」という単語を季語にすることを提唱し、俳句の募集を行っている。 彼は生前から雨男として有名で大事なロケではいつも雨だったといわれる。
- メキシコオリンピックやビートルズ日本公演を観戦したといわれている。
- 日活の堀久作社長は「赤い波止場」のラストシーンで手錠をかけられたことを受けて「彼に手錠をかけた馬鹿者がいる」と年頭の挨拶に出るほど激怒したことがある。
- 青山の『ブルーシャトー』へ飲みに向っているときに土砂降りにあったり、長岡からの帰りに大磯ロングビーチのレストランで小銭しかないため年配が「出世払いで払え」と申し出た。1年の間払っていなかったが、払いに行こうとしたらその年配がすでに他界していたため店名名義で支払ったエピソードがある。
- 勝とは京都や渋谷のドンキホーテで 酒を飲んでケンカしたことがある。勝はこのとき「これは芝居だ」と優しい目がすばらしかった彼を賞賛している。これ以降勝は彼をすごい人すなわち計算が早 い人(彼の『嵐を呼ぶ男』のドラマーのまねが大好きだったという。)だとしている。死後彼の自宅を訪問した際、彼以外座れない染みだらけのスネークソファーで寝転んだ。まき子夫人は頷くしかなかったといわれる。
- 由美とは11PMのカバーガールに抜てきされたとき、問い合わせ殺到で日本テレビの電話回線がパンクしたが、その中に彼のものもあったといわれている。
- 浅野ゆう子(中学生を警察で働かせていいのか=労働基準法に抵触する恐れがあるという要望から短期間での降板であった。)は「私の方が彼よりまた下が長い」といった逸話が知られているが、本人は否定している。(だが浅野は彼に対してフランクな態度で接していたという説もある。)その後彼は「お前、世界に向けて仕事をしていくべきだ」と女優生活の糧となる言葉を贈っている。
- 余談としてクリスマスソング(1966年)のアルバムに初挑戦。担当者(テイチク)は「実はストーリー性に富んでいることを意識して制作するのではなく、新しいものに挑戦した結果そうなった。クリスマスソングのアルバム発売も、おそらく日本人では初めてだった(不明)と思う。」と振り返っている。「赤鼻のトナカイ」を例にして考えると山本ただしの訳詩を採用している。
- 最初ドラマの仕事は気乗りをしていなかった。映画が失敗し、金銭的に苦境だったからである。「太陽にほえろ」では最初1クールの出演を予定していたが、竜雷太(『テレビをバカにしないでください』)や日本テレビ等の説得もあり15年のロングランとなったのである。
- 黒部の太陽では熊谷組豊川工場で2ヶ月の間作業員を10人ほどつれて演技練習をしたが、掘削機で岩を掘ったり、破砕帯を突破できるかどうかを関西電力から迫られたシーンは有名である。
- 近藤は彼の『歌手をやめろ。俳優をやれ』という衝撃的な言葉を受け入れることができなかったが、彼が後に発した『俳優は一生の仕事にあらず』という言葉を聞いて立ち直ったといわれている。
- またある日のこと。青山のブルーシャトーに酒酔い状態で入った近藤はマスターが「彼が来ると思わなかった」と『裕次郎』(ラベル)を差し出した瞬間マスターは立ち去ってしまった。それを見計らってそのブランデーを飲み干したという。
- 常に時代を先取りしたファッショナブルな人物で、10代のころから自身の普段着(革ジャン)や父親のスーツを自分の寸法に仕立て直した。自ら洋服のデザインを手掛け、襟やポケットの形、裏地まで的確に指示した(自然に見えるからである)。テーマは「人と同じ格好をしないこと」。専属テーラーに発注した洋服は、5000着以上で、2000着以上仕立てた。大量の洋服が収納場所に収まりきれなかったため(ガウンやセーター類)、自宅の屋根裏を改造した。例えば背広の裏地にエルメスのスカーフや、ワイシャツの襟を5.5センチと高くする等(引用)、彼オリジナルのアイデアが伺える。
- 1973年の船乗り大会(トランスパシフィック太平洋横断レース)では、最初、コンテッサIII世号の飲料水を確保するタンクから水漏れが起こった。スキッパーの彼は 飲料水に海水を足して米を炊くことで乗り切った。貿易風を受けながらクルー8人は彼のパンツをはきながら15日間ロサンゼルスからホノルル(アラワイ)約4200キロを横断した。
- 1981年の療養時の「バー&レストラン」でこの店の従業員は「彼がヘネシーVSOP(ブランデーの銘柄)を飲み、仲間とシャンパンで乾杯し、ガーリックステーキを食べたという。日系人は「彼は生演奏で『ブルーハワイ』を歌い、バーテンダーに『海と風がないと、生きていけない』と話していた」ともいう。ちなみに常連客にはジャイアント馬場がいたという。
- 八代は彼のデュエットの間奏(2~3番の間・あるいは彼女のソロの間)でウィスキーの水割りを飲んでいたことから飲み物や食べ物を置くようになったという。舞台の楽屋に神棚を作り、回復を祈っていたという。「歌は命で、絵は精神」という考えから箱根で肖像画(油絵)を描く。内面を描こうとする姿勢が大切だと思ったからである。
評価 [編集]
- 浅丘ルリ子:「彼は明るく太陽のようで、スーパースターなのに形容のしようがない不思議な人。だから老若男女に愛されている。」
- 由美かおる:「彼はスターでカッコイイ兄貴で、先に帰ろうとすると寂しそうな顔を見せたりするような少年で、彼そのものが太陽のように明るく(健康的で)自然体ですべてが絵になっていた。」
- 浅野ゆう子:「彼はあまりにも大きな存在で、思うのもおこがましいと子供心に感じた。親しさを感じることができた。」
- 長門裕之:「彼の言動が目新しくリーダーシップが取れる。彼がいたから(裕次郎の在り方、生き方を継承できたことに影響している)今の人生がある。」
- 井上梅次:「彼は台詞覚えも頭も良い。彼こそ一番親近感があると誇れる(彼は裕次郎と同じ大学の学友でもある)。」
- 鵜殿洋子 (フリーライター):「彼は飲んでも冷静であり、さわやかな笑顔も特徴だ。(元女将として)彼を夢のような時間に連れて行く心構えを学ぶことができた。」
- 植松康郎 (日活元宣伝部長):「大スターの彼は異質な存在の人で、本当に役者になれるのかと不安がったが、劇場の人気が騒ぎ始めたことを考えると、彼は人間味のある人だといえよう。」
- 中村玉緒 :「彼は何をしても格好がよくて、男の友情をうらやましく思えるような人物だった。」
- 江崎実生:「彼はスーパースターであるがゆえに芝居をしない。座っているだけでお金が取れる。つまり芝居というのは人生と一緒だと彼の行動でわかった。」
- 近藤真彦:「彼に近づくにはいろんなことを経験しないといけない。もう一つはいい男にもなるべきだ。」
- 立平良三(元気象庁長官):「彼はとても謙虚。とにかく豪快な生き方をした人物であった。」
- 大川貞夫(水戸プラザホテル支配人):「彼は心の優しい人で、熱海の太陽であった。」
- 岡田晋吉(川喜多財団顧問):「彼はカッコよくもあり憧れで怖かった。命がけのドラマ(太陽にほえろ!)を救った恩人でもあった。」(高校時代横須賀線を一緒に利用していたことがある)
- 今岡又彦(元東急エージェンシー):「彼は馬鹿を言ったりして楽しい人であり、人を上手に乗せるリーダーシップを持っていた」
- 大古誠司(元バレーボール選手):「(脚の長さの勝負で)彼の脚の長さをごまかして勝たせてあげたことは、大スターにとっては失礼に当たる。彼は悠然とウイスキーを飲み、他の歌手の歌を歌った低音の声はしびれた。」
- 下村尊則:「彼はリアルな男で、時代の象徴になれる。このような経緯から芸道の出発点と考えるようになった。」
- 大山のぶ代:「彼の姿から(もともと推理ドラマが好きなので)女性でなければ思いつかないストーリーを考え、彼やその他のキャストのつながり(脚本)を考えるぐらい熱中した。」
- 木村理恵:「彼はやさしくて大きい人であり、お茶子としてお茶を出す角度やタイミングさらには少女から大人になるという過程も演じることができてよかった。」
- 梅木恒明(元目黒学院高校ラクビー部・硬式野球部監督):「彼はスポーツに興味があり、ファンからサインを受けても嫌な顔をせず、笑顔で応じた顔が忘れられなかった。」
- 斎藤耕一:「彼とは長い付き合いであり、誰でも知っている俳優といえば彼しかいなかった。」
- 高柳六郎(テイチクアレンジャー):「彼は照れ屋であり、心が温かくなる存在であった。」
- 友直子:「彼は体育会系気質であり、とても気遣いが出来る優しい人だった。」
- 八名信夫:「かつては劇中で死んでも無視をした気遣いも、彼なら何時でも死ねる気遣いで望むことが出来た。」
- 竜雷太:「彼は弱音を吐かないほどの人格者であった。」
- 後藤武久(テイチクディレクター):「彼の声が自分の声のような気がして嬉しかった。」
- 遠藤千寿(テーラー):「彼と共に過ごせた時代は、私にとって『幸せ者』という宝物を作った。」
- 峯尾基三:「彼は私の脚本をまるで命と重ねているかのようだった。」
- 八代亜紀:「彼はどんな時でも褒める優しさと、人の気持ちが分かる温かい人間だった。」